Why forest & water

なぜ、森と水なのか

あなたが土地を気候観察したとき、その数字の奥では、いつも一つのプロセスが起きています。

森と水が生み出す、地上の気候科学

植物と水があるか、植物と水がないか

たったそれだけのことが、その土地の気候の起伏に、小さく、そして大きな影響を与えていきます。私たちがプロジェクトの中心におき、心と手を向けていく先には、いつも「森と水」があります。

これから何度も「森」という言葉が出てきますが、私たちがそう呼ぶのは、ただ木が立ち並んでいる風景のことだけではありません。
草の原っぱも、葦のしげる湿地も、水をはった田んぼも、ベランダに置かれた鉢植えも。植物がその場を織りなしている風景の全体を、ここでは挑戦的に「森」と呼んでみたいと思っています。

どうか、そんなすこし広い風景として森という言葉が語られているということを思い浮かべながら、読みすすめてみてください。これを読み終えたとき、いつも目にする木や水辺や、ニュースの中の「異常気象」や「酷暑」が、ふと足もとの、あなたが暮らす場所とつながって、少し違って見えてきたなら、わたしたちはとても嬉しいです。

How the climate becomes cool

涼しさという気候は
どのように生み出されるのか?

── 水を受け取り手放せるもの ──

暑い日、わたしたちの体を巡る水が、素肌や風を通して乾くとき、体の熱をいっしょに連れ去って、身体がすっと涼しくなる。

あなたが最近通り過ぎた木も、あなたと同じことをしています。夏の木かげが涼しいのは、木が日ざしを遮っているからだけではありません。樹木は、そこでもうひとつ、蒸散と呼ばれる働きをしています。

葉のたくさんの小さな口が、根から吸い上げた水を、空気中へ手放している。水が液体から気体に変わるとき、まわりからたくさんの熱を奪っていく。打ち水をした地面が乾くと、あたりがひやりと涼しくなります。大きな木は、暑い日には一日に数百リットルもの水を、葉から空へ送りだします。
その水が蒸発するときに奪う熱を家庭用のクーラーに換算すると……じつは、ここがおもしろいところで、研究者によって答えが違います。1台ぶんという人もいれば、10台ぶんという人もいる。木の大きさや種類で、その日の暑さで、根もとの水の量で、葉の口の働き方が変わるからです。だとしたら、あなたの庭のあの木は、クーラー何台ぶんになるとおもいますか?
実はそのことは、どの論文にも書かれていません。あなたがこれから観察する、その土地だけに見えてくるものだけが、その答えになるのかもしれません。

でも、確かなことが、ひとつ。

木は、電気を使わず、水と太陽の力だけで働きつづける冷房装置だということ。コンクリートやアスファルトは、水を含むことができません。だから水で冷やされることもなく、昼は太陽の熱を溜めこみ、夜はそれを吐きだし、また次の朝、ふたたび溜めはじめます。

地面に届いた太陽の熱には、行き先がふたつあります。ひとつは、水を蒸発させる行き先(潜熱と呼ばれます)。熱は水蒸気にくるまれて空へ運ばれ、その場の温度は上がりません。もうひとつは、空気を直接あたためる行き先(顕熱と呼ばれます)。蒸発させる水がそこになければ、熱はまるごと地面に溜め込まれ、空気をあたためる。

森や湿った土や草地では、届いた熱の多くが水と共に移動し。乾いた土やコンクリートの上では、水がないぶん、ほとんどの熱がそこに留まります。。
水を受け取り手放せるものは涼しく、
水を受け取れないものは熱くなる。
豪雨と干ばつ、このふたつ両極の気候を、水というレンズを通して見つめてみましょう。乾いていることと、熱くなることは、同じことの表と裏。── では、熱はいったいそこで何をするのでしょうか。

熱は、どこで生まれるのか?

熱。それを一番はっきり感じるのが、真夏の都市です。アスファルトとコンクリートに覆われた街は、水を含まないため蒸発が起こらず、太陽から届いた熱がまるごとその場所の気温に変わります。

そのうえ、本来なら土に吸われるはずの雨さえ、側溝が土に触れさせないまま流し去ってしまうために、土地が水で冷える条件が揃わず、熱は蓄積しつづけます。これは都市だけの話ではなく、踏み固められて草などがない、裸になった畑でも、同じことが起きています。

実際に東京で、その現象を観測した方々がいます。植物が豊かな郊外では、太陽の熱の4分の3ほどが水の蒸発に使われ、空気をあたためた分はわずかでした。ところが植物の乏しい市街地では、それが逆転していました。熱が蒸発で逃がせないぶん、そのまま街の空気を加熱していく。

猛暑の日に街がひときわ暑いのは、その大半が「植物や土壌がそこになく、蒸発させる水を失っているから」。都市は、砂漠の気候メカニズムの一点を、人の手で再現しています。土地にある水を失い、蒸発で冷える機会を失いつづけます。

ただし本物の砂漠が夜に熱を空へ手放して冷えるのに対し、都市は排気とコンクリートの熱が蓋となり、夜さえ冷める機会を失い、真夏の夜には熱帯的な気候が、街のなかに点々と生まれています。

かつての夏の夕立は、
どこへ消えたのか?

気候変動による温度上昇に上乗せするように街がこれほど熱せられると、それは周辺にもたらされる雨の振る舞いを、激しくさせてしまいます。

日本は海に囲まれた国です。夏の雨をつくる水蒸気は、その周囲の海から運ばれてきます。水蒸気そのものは、たっぷりあるため、日本の空はいつも湿っています。問題は、その湿った空気が陸の上で、どこでどう振る舞うのか。それに強い影響を与えるのが、その土地の地表の温度です。

太陽に照らされると、街は、まわりの海よりもずっと熱くなります。海は、水が蒸発したり深くまざったりして熱をにがすことができますが、コンクリートの街にはそれができず、熱がどんどんたまっていくからです。

やがて、熱い陸と冷たい海のあいだに強い温度差が生まれます。
この差が、海の湿った空気を街へと吸い寄せます。海に囲まれた街では、いくつもの方向から風が吸い寄せられて、街の上空でぶつかりあうこともあります。

空の高いところまで冷たい、とくに大気の不安定な日には、ここから天気がにわかに動きだします。焼けた地面が、その上の空気を下からぐいぐい押し上げるのです。湿った空気は、高く昇るほどふくらんで冷えていき、ちょうど雲のできる高さまで来ると、もうこれ以上水分を抱えきれずに、小さな水のつぶへと変わります。

このとき、ふしぎなことに熱が生まれます。気体だった水が、つぶ(液体)に変わるときに、熱を手放すのです。その熱で空気はまたあたたまり、軽くなって、さらに高く昇っていく——すると水のつぶがもっとできて、また熱が出る。雲は、自分の出した熱で自分を育てるようにして、ぐんぐん背をのばしていきます。そして、抱えきれなくなった水を、いっぺんに落とす。これが、街をおそう局地的な豪雨です。熱くなりすぎた街が、自分の頭の上に、雨雲を育ててしまうのです。
その雲ひとつでも、中には象百頭ぶん(およそ五百トン)の水が浮かんでいます。豪雨を降らせる入道雲ともなれば、その数千倍。何百万トンもの水が、頭の上で渦巻いている。近ごろの「ゲリラ豪雨」や「線状降水帯」の凄まじさが、腑に落ちるかもしれません。
実際、この東京の空を、長い年月にわたって見つめてきた研究者がいます。気象研究所の藤部文昭さん。都市の気候を追いつづけてきた方です。

その百年以上の記録の解析から見えてきたのは、逆説的な変化でした。強く降る雨がこの一世紀で増える一方、弱くこまめな雨は、年月をかけて減りつづけています。そしてこれは、みなさんの体感だけの話ではありません。
実際に日本では、強く降る雨の回数がこの数十年で増える一方、細やかな雨の降る日数そのものは、むしろ減っているという明確な事実があります。雨の一年の総量は、大きくは変わらないのに、です。つまり同じ量の雨が、穏やかな幾日にわけて降るのをやめ、一度に豪雨として落ちてくる。そのぶん、雨と雨のあいだの渇いた時間は、長くなっていきます。

豪雨と渇水は、別々の異常ではなく、ひとつの崩れの、表と裏なのです。

なぜ、同じ年に
豪雨と渇水が起きるのか?

同じ「土地が熱くなる」という出来事が、ある土地では、逆に雨を消してしまうことがあります。みなさんは、このような経験はあるでしょうか。こんなにも雨が欲しいのに、すぐ隣の町にしか降らない。まるで自分の地域を避けるように。しかも隣町は、豪雨。

なぜ、こんなことが起きるのか。それを解くために、ひとつ、多くの人が想像しうることから、お話しさせてください。

わたしたちは、植物は水を「使う」ものだと思っています。根から吸って、葉から手放して、消えていく、と。でも、実のところは植物は、その土地に雨を「呼び戻す」存在かもしれない。ということが近年の気候科学で議論が進んでいます。

先ほど話したことを思い出してみてください。一本の大きな木が、一日に数百リットルもの水を空へ送りだす、というお話を。あの水は、消えてなくなったわけではありません。空へのぼり、その土地の上で雲になり、やがて雨となって、また同じ土地へ降り注ぐ土着の雨なのです。

わたしたちが学校で習う水の循環は、海で蒸発した水が雨になり、川をくだって、また海へ還る——地球をめぐる、大きな巡りの輪を学んできました。
けれど、その内側にはもうひとつ、目には映りにくい小さな水の巡りの輪があります。ある土地の植物が手放した水が、その土地の空で雲になり、その土地に再び雨をめぐらせる。

海を経由せず、土地と空のあいだだけで小さく完結する、小さな水の循環が存在しています。
そして、この小さな水のめぐりを、世界のあちこちで見つめていた人たちがいました。その一人が、遠い地中海の沿岸で、生涯をかけてその土地の気候を調べ続けていた科学者、ミラン・ミランです。

かつてスペインには植物に覆われた沿岸がありました。午後になると海風が、陸の木々の手放した湿りを受けとりながら内陸の山へのぼり、おだやかな夕立となって土地に水を返す。そしてその水がめぐる土地の植物を育て、育てられた植物は再び水を空へ返し、それがまた雨になる。その小さな輪が、流域全体で、健やかに巡っていました。

ところが、沿岸の植生と湿地が失われると、その水のめぐりの輪が断ち切られてしまいました。乾いて熱くなった沿岸は、海風に湿りを手わたせなくなり、湿り気を補給されないまま内陸へ進んだ空気は、山で冷やされても、穏やかな雨になれません。こうして土地をうるおしていた午後の夕立は、消えていきました。

そして行き場を変えた水蒸気は、ときに思いもかけない季節に、よその土地で、豪雨となって姿を現す。これが、ミランが生涯をかけて調べ続けてきたことでした。

さて、ここで、はじめの問いにもどります。なぜ、隣町にだけ雨が降るのか。

同じ「小さな輪が切れる」という出来事でも、日本と地中海では、正反対の顔で現れます。海に囲まれ、湿りがいくらでも送られてくる日本では、地上の熱が海の湿気を無理やり抱え上げ、一か所に集めて、激しく降らせます。雨は消えるのではなく、強まる傾向が多くなる。いっぽう、もともと乾いた地中海では、水の巡りの輪が切れれば、雨を育てる湿りそのものが尽きて、静かに消えていく。

プロセスの向きは逆でも、はじまりのきっかけはひとつ ── 地表が、水を失い、熱が高まるということです。東京の空で藤部さんが数字に捉えたのと同じ崩れを、遠い地中海では、ミランが見つめていました。
湿った土地では豪雨が。乾いた土地では干ばつが。
まるで正反対のこの災いは、その土地に水があるか、
ないかによって現れる、一枚のコインの、表と裏なのです。
2024年の秋、ミランが亡くなったその年に、彼の生まれ故郷であるバレンシアを、記録的な豪雨が襲いました。わずか数時間で一年ぶんに迫る雨が降り、多くの方々のいのちが失われました。

そして、水を失った地表は、今現在、もうひとつの気候災害の果てへも向かっています。それは森林火災です。ミランが見つめたのと同じ地中海の沿岸の国々では、いまや夏が来るたびに、乾ききった大地が燃えあがるようになりました。

豪雨、干ばつ、そして山火事。姿はまるでちがっても、根はやはりひとつ。すべては、水を失うことから始まっています。

ミランが語った沿岸の植生の喪失が近年の豪雨や森林火災の現象を左右したのか、それはまだ 科学的な根拠を確定させたわけではありません。

しかし、彼が残した問いは、その正式な科学的確定を待たずに世界を動かしはじめていました。高温と干ばつに悩むスペインやポルトガルの人々にとって、ミランの観点は彼らの現地での近年の気候の変化への直感を後押しし、さらに直接的な行動へと導きました。

彼らは雨をその場に留める様々な構造物を築きはじめ、土地の保水力を上げはじめ、その動きは静かにヨーロッパ全土へ広がりはじめています。限られた季節の貴重な雨を捉え、少しでも多く土にしみこませる。そうすることで、緩やかに流れる水が、豊かな表土を削り取る侵食を止め、草や木が生え、枯れた水源や泉が戻り、生きものが帰ってきました。
そして、その場の気候は穏やかになり、時に起こる激しい豪雨や干ばつを乗り越える土地となりました。それはミランの論文の証明より先に、人々が動き、土地そのものが証明した、一つの答えでした。

暮らしの中にある水に、
再びつながりなおせるか?

この正反対のふたつの災いが、地表が水を失うという同じ根から来るのなら ── 地表に水をとどめ、植物を育てれば、豪雨と干ばつを、たったひとつの手入れで同時にやわらげられることができるのでは?

さらに観点を深めていきましょう。ここでさらに重要になるのが植物と水が生み出す、健康な土壌です。植物や地中の生きものが育てた土は、地球が誇る巨大な水のスポンジです。根が張り、葉が落ち、虫や微生物が働いて、土に空気のすきまと、水をつかまえるねばりが生まれる。そのような土は、叩きつける雨を表面ではじかず、すうっと中へ吸いこんでいく。

同じ場所に降る雨でも、片方は固く乾いた地面に落ちれば弾かれ、削り、走り去り、溢れかえる。もう片方はやわらかく、いのちの満ちた地面に落ちれば、しみこみ、たくわえられ、その土地の水のめぐりに加わる。水の受け手が変われば、おなじ雨が、災いにも恵みにもなります。

そして、水をたっぷり飲みこんだ土壌は、雨が降らない日がつづいても、その水を土の中で保ちつづけます。同じ土が、雨の多すぎる日には水を呑みこみ、足りない日には水をさしだす。豪雨をやわらげる手と、干ばつをやわらげる手が、じつは同じ一つの両手なのです。
土に蓄えられる水の量は、想像よりずっと大きくて、驚くかもしれません。土の中の有機物がほんの1%増えるだけで、土はやわらかな団粒をつくり、その無数のすきまに水を抱えるようになる。その量は土の質によって変わりますが、たとえば一般的な庭(20平方メートルほど)なら、お風呂に1杯から2杯ぶんの水を、よけいに受け止められる。ヘクタール規模でならせば、小さなため池ひとつぶんにもなりうる水が、目に見えない土の中にたくわえられるのです。しかもこの1杯は、豪雨のたびにくり返し受け止めることができ、土を守り、日照りのたびに、植物へ差し出されるものになります。
しかし逆に、固め、踏み固め、土を裸にしつづけ、水が染み込まない状態になれば、この力は乾きとともに失われ、次の激しい雨で、土は表面の栄養ごと流されてしまう。そして、さらに土地は水を受け止め、命が再びそこに戻ってくることを、難しくさせてしまうでしょう。

ヨーロッパだけでなく、世界中で起こっている、土地と水の扱い方が引き起こす様々な気候の負のスパイラル。

今、その在り方を考え直そうという動きの広がりとともに、日本でも阿蘇で、千年ものあいだ人が野を焼き育ててきた草原を「水を育むしくみ」として捉えなおし、その草原が養う地下水を数字で確かめ、流域みんなで支えていく試みが、いま動きはじめています。

しかし行政の手が届くのは、流域や草原や巨大な土地という、大きな「面」です。
水の流れには「面」だけでなく、その「面」をつなぐための「点」と「線」が必要です。

街なかの一軒の庭、ベランダ、駐車場わきの小さなスペース——その無数の「点」は、そこで暮らす人の手しか触れること、生み出すことができません。

しかし行政の手が届くのは、流域や草原や巨大な土地という、大きな「面」です。その「面」には、その「面」をつなぐための「点」と「線」が必要です。街なかの一軒の庭、ベランダ、駐車場わきの小さなスペース ── その無数の「点」は、そこで暮らす人の手しか触れることができません。
水のつながりは、点を線で結ばなければ、本来のつながりを取り戻せない。その決定的なピースは、あなたにしか触れられない、あなたが暮らす今この場所にあるのです。

森は、再び自らの力で広がることができるか?

打ち水を、まきつづける。日よけを、立てつづける。
効きめがあっても、それを続けるのは大変かもしれません。けれど、植物は、ただそこに在るだけで、それと同じことをずっとやりつづけてくれます。

最初の一本がつくった日かげと湿りが、次の植物が生まれる場をつくり、その植物がまた次を育てる。そこに虫がやってきて、鳥が集う。そして、土壌はますます豊かになる。あなたがその一つの植物と水とともに最初の一歩を踏みだせば、あとは、いのちが、いのちを呼んでいく。

日本の土地では森だけでなく、棚田で、ため池で、茅場で、人と水と実に様々な種類の植物とともに、いっしょに流域をつくってきたのです。だから気候ケアを行うには、必ずしも木ばかりを植える必要はありません。小さな田んぼや池、水を受け止める草の斜面でも、子どもがつくった小さな水たまりひとつでも、水を地表にとどめ、いのちを呼ぶなら、それは立派に、水と森のしごとをしています。

そして、それらの働きが時とともに、水を保つスポンジを厚くし、地面は熱くなりにくくなる。こうして衰えていく水のめぐりを、こんどは逆まわりにできる。水が植物を育て、植物が湿りと日かげを生み、それがまた次の植物を育てる。それを力強く加速させることができるのが、水という存在です。

水がなく土が乾けば、植物は葉の口を閉じ、蒸散をやめ、冷やすこともやめる。水のない森は、スイッチを切られた冷房装置と同じ。そして、生命をひろげるための力も失います。
だからこそ、水から始めていくことが、
とても強力なアプローチになるのです。

一本の木、そしてあなたから、
めぐりの環が生まれる

なぜ、たった一本の樹木を植えることが、こんなにいくつものことに波及するのでしょう。

樹木が日ざしを遮れば、地面が焼かれない。地面が熱くならなければ、空気は乱れず、豪雨の引き金は弱まっていく。根が張れば土がやわらかくなり、さらに雨がしみこむ。土に水がたくわえられれば、豪雨でさえも吸収され、干ばつはやわらぐ。
そこに虫が来て、鳥が来て、いのちでにぎやかになる。実がなれば、生きものの口に、またあなたの食卓にものぼってきます。

そして、涼しさも、うるおいも、豪雨へのそなえも、干ばつへのそなえも、多様な生命の重なりも、食べものも ── ぜんぶ、ひとつの手入れから、同時に生まれ、広がっていく。

なぜ、水はこんなにも生命と生命を、そしてその営みをこんなにも結びつけることができるのでしょうか?それはきっと、気候も、水も、土も、生命も、もともと一つの繋がり合いだったからでしょう。わたしたちは猛暑を、豪雨を、干ばつを、別々の問題として並べ、ひとつずつ解こうとします。
けれど土地というリアルな自然のなかでは、それらはすべて同時につながって存在しています。

水があるから草が生え、草があるから虫が来て、虫が土をつくり、土が水を抱え、緑が地面を冷やし、冷えた地面が空気をおだやかにする。
だから生命のはじまりである植物や森と水に手を入れることは、そのつながりの織物のいちばん端に触れること。端に触れれば、ずっと向こうまで、それは揺れていくのです。

冬に生まれる、森と水の恩恵

ここまで、夏の話をしてきました。では、冬は?と気になる方もいるかもしれません。

森と水が与えてくれるのは、夏の涼しさだけではありません。同じ水と森が、冬には裏返しの恵みをくれます。夏の日ざしをやわらげられた土の保水は、冬には夜の底冷えをやわらげる力を生み出します。そして、夏に豪雨を呑みこんだ土は、乾ききった冬の空気に、その水をゆっくり手放して、潤いを返していきます。

土に水分があり、空気の乾きがやわらぐなら、昔ならほとんど聞かれることのなかった乾いた荒れ地や森林の火災も、防ぐことができるかもしれません。

そして、山あいや田畑のそばに暮らす方なら、もう気づいているかもしれません。冬の乾きは、その冬だけで終わらないことを。降るはずの雪が降らず、山に蓄えられるはずだった水が足りなければ、その渇きは春をこえて、田に水を張るころまで、長く尾を引いてやってきます。冬に大地がどれだけ水を蓄えられるか。それが、次の季節のはじまりと、その実りまでを左右することになります。

落ち葉は土に還り、次の年の土を豊かにする準備をし、雪は春までの水を貯めていく。そして、雪が降らない地域で暮らしている方も、その恩恵を、時間の流れと水の流れを通して受け取ることになるでしょう。
冷やす夏と、冷えすぎない冬。
呑む季節と、差し出す季節。
森と水は、一年をかけてひと巡りしながら、
その季節折々の恩恵を生み出しつづけます。

生命たちとの営みを、
今いちど見つめなおす

実のところ、わたしたちが試みることは、木を植えて、水を巡らせること。
それは人類が何千年も前からしてきた、いちばん古い営みなのかもしれません。

新しくできるのは、土地を見るまなざし。土地を「これから親しくなる相手」として見てみる。気候観察をするのは、相手をただ、もっと知りたいから。

いま大気にあふれ気候を乱していると言われる炭素も、もとをたどれば、何億年も前の生命だったものです。太古の植物やプランクトンが石炭や石油になり、それを掘り起こして燃やしたことで、かつて生命だった炭素が、大気に戻ってしまった。わたしたちが森と水を通して生命を豊かにしていくことは、その炭素に、もう一度いのちの居場所を返すこと。「炭素を減らす」のではなく、行き場を失ったものを、再び生命のめぐりに戻していくこと。

そして近年、水とともに自然と生命を蘇らせた先駆者の多くは、その効果を、プロジェクトの始まりから数字で残しませんでした。
涸れた川が甦り、村に水がもどり、土地が涼しくなった——それは疑いようもなく目の前で起きたのに、手を入れる前と後で気候が何度変わったのか、それを記録した人はほとんどいなかった。
だから今、その恵みを確かな数として語りきることができない。

この空白こそが、わたしたちが、気候ケアに手をつける前に、まず気候観察からはじめる理由です。
ひとたび手を入れてしまえば、手を入れる前のその土地は、二度と測れません。
だから、客観的で誰でも確かめることができるものを、後から来る人に手わたせる確かなものとして、ここから残しておきたいのです。

ここまで語らせていただいた仕組みも、いまのこの現段階での、私たちの理解にすぎません。木が空気を冷やす力は土地ごとにちがい、熱が雨を呼ぶのか消すのか、その境目はどこにあるのか、それは場所や状況によって未だ不明確です。だからもし、あなたの土地で観察されたことが、ここに書いたことと食いちがったなら、どうか、その土地が語ったことを信じてください。
その事実こそが、わたしたちの歩みを正しい場所へ修正してくれることでしょう。
そして、そこから再び歩み始めましょう。

そして、はじまりの一滴になる

気候の話は、いつもどこか遠い世界の出来事のように聞こえます。
大きな数字、大きな会議。でも、もう気づいているかもしれません。去年どこかで聞いた「記録的な豪雨」も「観測史上の猛暑」も、それは地球の裏側の話ではなく、すでに、あなたの暮らしているその場所で、今年も起きるかもしれないことだと。

今この瞬間もあなたが吐いた息のなかに含まれた炭素を、木は葉の小さな口から取りこんで、幹に、枝に、葉に、つくり変えていきます。あなたが今日手放した炭素のいくらかは、いつか、どこかの木の一部になる。いま吸っているその酸素も、どこかの葉が手放したもの。あなたと木は、気づいても気づかなくても、たえず体の材料をやりとりしている。 

そして、その互いの呼吸の中に『水』が存在しています。
あなたは、すでにこの循環の、一部なのです。これから庭に木を一本、小さな場所で水を扱っても——それが何になるのか、という声が聞こえてきても。
手を触れたその一点から、あなたは目の前にあるこの小さな気候に、確かに働きかけることができます。いま世界のあちこちで、人々と協力して枯れた川を素朴な方法でで甦らせた人、乾いた大地に雨水を一滴ずつ導く人、山に木を植えて海を甦らせた人が、同じ「水と植物を扱う」ということを通して、それぞれの場所で多様な行動を起こしています。

地表に、水を手放す力を取りもどし。熱くなりすぎる私たちが暮らしているこの場所をを冷ましていく。

衰退してく水のめぐりを、逆まわりにして生かしなおすものへと変容させていく。ひとつの土地では何にもならないのかもしれません。

けれど、その小さな変化は、あなたのその場所からお隣へ、流域へ、ゆっくりと滲んでいきます。その波紋がどんな風景を生むのかは、世界のいたるところで、すでに観測されはじめている事実です。この時代における気候変動が、数えきれない人々のささやかな営みの集積から立ち上がってきたように。

わたしたちの小さなケアもまた、いつか、この世界に新しい時代の風景を立ち上がらせるかもしれません。そして、その風景の一つにあなたの土地が加わったなら——あなたの土地とわたしたちの土地は、雲を運ぶ空の流域のどこかで、水を通じて、きっと巡りあうことができるでしょう。
Project-2℃は、世界の各地で土と水のめぐりを甦らせてきた人々の絶え間ない仕事に、インスピレーションを与えていただいています。心からの敬意とともに、その幾人かの名を記します。

ラジェンドラ・シン

インド
素朴な土の堰「ジョハッド」を村人とともに無数に築き、涸れていた川を甦らせ、1000を超える村に水と暮らしを取りもどした。地下水位は、地域によっては数メートル回復したとされる。

中村哲

日本
戦乱と干ばつが日常化したアフガニスタンに、日本の古い治水の知恵に学んだ用水路を引き、砂漠化した大地に、緑と人々の暮らしを取りもどした。

ブラッド・ランカスター

アメリカ・アリゾナ
乾いた都市の舗装道路に流れる雨水を、ひらかれた土地へ植物とともに導き、都市の豪雨と水不足、高温をケアする方法を広めた。

ワンガリ・マータイ

ケニア
グリーンベルト運動を通じて、一本の植樹を何千万本もの森へと育て、治水と生態系の回復を、コミュニティの力によって成し遂げた。ノーベル平和賞受賞。

畠山重篤

日本
気仙沼の牡蠣漁師。「森は海の恋人」を合言葉に、海を育てるために山へ木を植えつづけ、森・川・海の豊かさがひとつの流域でつながっていることを、その手で示した。

ザック・ワイス

米国
オーストリアの農家ゼップ・ホルツァーに学び、世界各地で「水循環の回復」をベースにおいたランドスケープを設計・実装。水の巡りの健全さこそが干ばつも洪水も山火事も気候そのものをやわらげるのだと説き、Water Stories を通じて、世界各国の気候風土を尊重し、それぞれの暮らしている環境で、水循環の回復のための技術や専門家を育成している。
そして、阿蘇では、1000年ものあいだ人が野を焼き育ててきた草原を「水を育むしくみ」として捉えなおす動きが進んでいます。2025年には、草原の水源涵養を数値で評価し、流域の受益者みんなで守り手を支える基金が始まりました。寄付がどれだけの水を育むかを数字で示そうとする、その姿勢は、わたしたちの願いと深く響き合っています。

本文に登場したミラン・ミラン(スペイン)と藤部文昭(日本)をはじめ、地中海の沿岸で、東京の空で、あるいは名もなき土地で、水循環と生態系という観点から地上の気候危機を、生涯をかけて観測しつづけた研究者たち。遠くはなれた土地で、それぞれが同じ一つの崩れを見つめ、数字とことばにしてきました。都市のヒートアイランドと蒸発散のふるまいを、一つひとつのデータで確かめてきた人々に。その地道な観測があってはじめて、わたしたちは足もとの土の上で起きていることを、確かめられる言葉として語り、確信をもって行動することができます。ここに名を挙げきれない、数えきれないその手に、深い敬意を。

なお、この物語が背負う「小さな水の循環を、それぞれの土地で回復させる」という考え方は、世界各地で静かに育てられてきた思想の流れ(New Water Paradigm と呼ばれることもあります)に、多くを負っています。そして、私たちはそのインスピレーションから『新しい気候パラダイム』として、日本だけでなく、世界とともにつながりを持ちつづけたいと願っています。
参考資料
気象庁「日本の気候変動2025」/ヒートアイランド監視報告|藤部文昭『都市の気候変動と異常気象 ── 猛暑と大雨をめぐって』(朝倉書店, 2012)ほか|東京都環境局・屋上緑化の効果調査|国土交通省/環境省「ヒートアイランド対策ガイドライン」|熊本県・阿蘇グリーンストック「阿蘇の草原の水源涵養と保全基金」(2025)|土壌有機物と保水力に関する各種研究(USDA-NRCS ほか)
※数値には土地・条件による幅があります。あなたの土地での観察がこれと食いちがったなら、その土地が語ったことを信じてください。

Project-2°C

生命に炭素を編みなおし、
水の巡りを通してこの星の気候をケアする物語
観察をはじめよう